資料NO. :  31
<資料名>
  講演会「ハンセン氏病を理解する」

 講演:藤田三四郎さん
 
いつ:2003年10月19日
  
どこで:富津市内キリスト教会
制作者  :  T.M.
制作日  :   2003年11月2日

  10月19日(03年),富津市にあるキリスト教の教会において,「ハンセン氏病を理解する」と題して「人権問題セミナー」が新聞折り込みの情報誌に紹介されているのを見て参加しました。やはり情報誌を見て参加したという人もいて20名ぐらいの集まりでした。

 藤田さんは,ハンセン病と宣告される前,宇都宮陸軍航空整備隊で飛行機整備をしていました。 ある日,右手関節がひどく腫れ上がり,診療を受けたところ「ハンセン病」と宣告され1945年7月7日に国立ハンセン病療養所栗生楽泉園に護送されたのです。この強制収用では,「患者や家族の事情等は全く無視され,あたかも罪人の逮捕と同様の扱いで,野良着姿のままトラックに押し込まれて行った」のだそうです。
 当時の栗生楽泉園は,食糧事情も劣悪で,「その日の貧しい給食を補うために,各自がハンセン病を病む不自由な身で僅かばかりの畑を耕し,その乏しい収穫物で飢えを凌ぐことに汲々としていました。療養所本来の治療面は二の次三の次という有様という生き地獄のようなところだった」のです。
 一度ハンセン病と宣告されたら,罪人と同様の扱いで療養所に収容されて,隔離の政策が行われていきました。「 1930年(昭和5)から1940年(昭和15)にかけて『日本民族浄化』の旗印のもとに展開された『らい根絶20年計画』は『らいの根絶は患者を全部隔離することに尽きる』との考えのもとに、収容施設を拡充し、すべての患者を収容して10年で患者を減少せしめ、20年にしてこれを根絶にいたらしめるという恐るべき国の計画であり、その実現を図るために厚生省の指示で全国に展開されたのが『無らい県運動』」でした。この隔離政策は治療薬が開発された戦後も続き,つい数年前(1996年)に「らい予防法」はようやくにして廃止されました。
 
 藤田さんは,ハンセン病とは何かその歴史について,ハンセン病を巡っての闘いについて語って下さいました。
 「らい予防法」は96年に廃止されたが,差別,偏見は今も続いていて,昨年も結婚話が破談になった例がある。患者の死亡者はこれまでに3万数千人いるが,死んでも故郷に帰れず全国の療養所の納骨堂に埋葬されている。と藤田さんは言っていました。そして,差別,偏見をなくすには,まず「正しく知ることが必要」だと語っていました。

 講演後の席を変えての交流会では,藤田さん差し入れのお菓子とお茶をいただきながら,さらにお話を伺いました。差別問題を巡って被差別部落問題なども話題になりました。
 当日いただいた資料を下に添付します。ぜひ読んでいただきたい資料です。

 (資料1)「ハンセン病対策と患者の人権」 藤田三四郎

 日本のハンセン病対策が開始されたのは、1907年(明治40)です。同年法律第11号として「ライ予防二関スル件」が帝国議会を通過し、この法律に基づいて、1909年(明治42)全国に5ケ所の公立療養所が設立され患者の収容を開始しました。
 収容定員は1100人に過ぎなかったといわれおりますが、1931年(昭和6)、1953年(昭和28)と数次にわたって法は改定強化され、病気の軽重を問わず全患者の強制収容を政府は目指しました。
 ハンセン病根絶の思想に基づく患者の終生隔離、絶滅政策です。
 1930年(昭和5)から1940年(昭和15)にかけて「日本民族浄化」の旗印のもとに展開された「らい根絶20年計画」の推進と「無らい県運動」こそがその根幹ということがいえると思います。
 「らい根絶20年計画」は「らいの根絶は患者を全部隔離することに尽きる」との考えのもとに、「収容施設を拡充し、すべての患者を収容して10年で患者を減少せしめ、20年にしてこれを根絶にいたらしめるという恐るべき国の計画であり、その実現を図るために厚生省の指示で全国に展開されたのが「無らい県運動」です。
 自分たちの県には一人たりとも患者の存在を許さないという運動は住民の投書や村人の噂などをも根拠にして、しらみつぶしに探し出しては療養所に送り込む、官民一体のファシズム運動が展開されたのです。
 昭和の年代に入って収容施設は増設され、1950年(昭和25)はじめには患者1万人の収容が達成されました。

 この強制収容に当たっては、患者や家族の事情等は全く無視され、あたかも罪人の逮捕と同様の扱いで、野良着姿のままトラックに押し込まれて行ったと記憶されております。
 さらに、患者の家族は真っ白になるほど大々的に消毒をされました。付近の住民はこの光景をみて病気に対する恐怖をつのらせ、様々な悲劇を引き起こしました。村八分が起こったり、一家心中、家族離散、自殺者が相次いだと言われています。
 一方収容された患者たちは施設運営のための不可欠の労働力として、管理者たちは利用しました。患者作業と称しタバコ銭にもならない作業賞与金を支給して重症者、不自由者の24時間付き添い看護、配食、洗濯、包帯の再生、木工、土工、糞尿処理、火葬にいたるまで入所者は就労しました。
 施設運営に必要な経費を国は節減するために、必要とする職員定員も最低に押さえ、不足するところをすべて患者労働に依存し、1945年(昭和20年)私が入所した時は患者数が1335名、職員111名です。この数をみてもお分かりの通りかと思います。
 不足するところを総て患者労働に依存し、入所者は当然保障されるべき日用費すら生活保護法による援助基準以下におさえられました。入所者が四六時中看護する病棟で、重傷者が臨終におちいっても医師や看護婦も全く枕頭に立ち会わず、看護人(入所者)が急いで看護婦当直室から「強心剤」の皮下注射液をもらって患者の細い腕に注射をする、このような悲惨な光景は、1945年(昭和20)私が入所した時に義務看護で病棟に行き臨終に立ち会った折に「看護婦さんに看とって欲しい」と言って死んでいきました。その記憶が今でも鮮明に浮かんで参ります。
 療養所と称して運営されてきた施設の歴史的一側面を私の記憶をたどって述べてきましたが、そこはまさしく収容所以外の何ものでもなかったと言っても過言ではありません。
 1945年(昭和20)栗生楽泉園だけで死亡者は135名、いかに悲惨であったかこの数でもお判りいただけると思います。

 生産力にもならない病人は、人間として扱われなかった戦前の軍国主義日本の冷酷な思想の一面が日本国憲法下で、政策としてハンセン病の対策の中で生き続けてきたといえます。「らい予防法」による患者の強制隔離撲滅政策の弾圧と迫害の中で、1951年(昭和26)全国各施設の入所者自治会によって全国組織「全国国立らい療養所患者協議会」(組織の名称はその後5回改められ、現在は全国ハンセン病療養所入所者協議会略称・全療協)が結成されました。
 1946年(昭和21)新憲法の公布によって初めて人が人なる生活を営む権利と、国がその保障のための義務(第25条)のあることが明記されました。
 日本では初めて本当の「人権」という思想が根をおろしたのも、この新憲法においてです。第11条で国民の基本的人権が保障され、第12条には「国民は不断の努力によってこれを保持しなければならない」とあります。(しかし)施設は治外法権同様の管理と運営が行われていたのです。
 人が人なるに値する医療や生活を保障されるには、入所者自身が立ち上がり、闘う以外に人間回復の途はありません。
 私たちの先人、先輩たちは真剣な討議を経て不退転の決意をもって全国組織を結成したのです。組織結成の最大の目的は、あらゆる差別と偏見を生み出し、患者の弾圧の抜本的改正を実現することにありました。
 1953年(昭和28)7月、政府は「らい予防法」改正案を国会に提出しましたが、その時には私たちの要求は殆ど反映されなかったのです。
 国会審議に入る前から、国会や厚生省への座り込みには私も参加いたしました。各療養所では、ハンスト、作業放棄とあらゆる手段を駆使し、死力を尽くして闘いまいしたが、すでにハンセン病はプロミンによって治る病気になっていたにも拘わらず、患者の強制隔離撲滅を基本理念として改正法は、再び国会を通過し、闘いは敗北しました。
 以来、私たちは「らい予防法」の改正を求める運動を一貫して継続しました。それは私たちの運動の原点だからです。
 そして1996年3月末日をもって、ようやく同法の廃止が実現しました。私たち入所者は、平均年齢が77..8歳(栗生楽泉園の場合)、(全療協支部は76歳)に達しております。ただ単に法的に解放されたにすぎず、現実はそれ以前と全く変化もなく時が過ぎているということに釈然としないものを覚えています。

 国は、「らい予防法」廃止の意味を問い直し、なぜ90年間も典型的な差別法として国際的に酷評されてきた法律を存続させたのか、どこにその責任があるのか、何をどのように反省しなければならないのか、歴史を具体的に検証する中から、それらが明確になると思います。国賠訴訟裁判は、法の廃止だけで、重大な過去を糊塗しようとする国の態度に入所者が憤慨したために起こったのです。
 ハンセン病に対する偏見は入所者、社会復帰者やその家族への有形無形の圧力となっていまなお、根深く残っており社会生活にも影響を与えています。
 国は、患者を社会から徹底的に排除し、療養所に収容するために国民に対して、政策的にハンセン病への恐怖感を植え付けてきた過去を反省し、偏見と差別を解消するための一大キャンペーンを積極的に行うべきです。そのことが成功して初めて「らい予防法」廃止の意義が認められます。
 私たちが、法廃止後6年経過しても、故郷に安心して一時帰省も出来ないのは、周辺の旧態依然とした空気が、家族の気持を頑なにしていると思います。私たち自身も、故郷の墓参りすら自重せざるを得ない状況が現在も続いております。
 私たちは51年間の運動の歴史を経験していますが、世界に対しても恥ずべき人間抑圧の「らい予防法」が運動を始めて45年間も廃止できなかった点を真剣に反省しなけれぱなりません。
 国を相手にした裁判は、これまでの例から少なくとも10年間はかかり、しかも勝利は非常に困難だといわれて、私たちは長年逡巡していましたがわずか2年10ヶ月で決着がついたのです。予想以上に早く歴史的な裁判が終わった最大の理由は、多くの国民に強い衝撃をあたえ、この裁判闘争が国民的理解と支持を得たからだと思います。
 私たちの運動は、端的に言えぱ、隔離された中での運動に終始していきました。
 運動と言うのは、国民の理解と支援が得られない限り、成功することは極めて困難だということを、今回の裁判の闘いの中で私たちは学びました。

 日本のハンセン病問題は、もうすでに市民から忘れられていました。それは、患者は一般社会から強制的に放逐され隔離されてしまったために市民の視界から患者が消え去ったからです。
 運動のないところに、新しい道は開けないし、問題も解決しないことを私たちは知っています。
 そして国民の理解と支持のない運動は、たとえ正当なものであっても成功しないことを知りました。政府に対しても、行政や社会問題に対しても、市民が無関心であることが民主主義社会を歪める根源になると私は考えています

 日本のハンセン病問題は、公衆衛生上は解決したということができても、社会問題としてはまだまだ未解決です。
 今後我が国が、ハンセン病問題をいかに前向きに終焉させていけるかということが、21世紀の日本の医療と人権問題の解決に大きな指標を与えてくれることは間違いないと考えます。医療問題と患者の人権、その原点がハンセン病問題と考えるからです。
                                       以上

(資料2)「ハンセン病への偏見・差別について」 
               
入園者の話:入園者自治会長:藤田三四郎

(目次)
 1. はじめに
 2. ハンセン病
  (1) ハンセン病の歴史
  (2) ハンセン病とはどのような病気なのか
  (3) なぜ、偏見をもたれ嫌われたのか
  (4) らい予防法と廃止
 3. 栗生楽泉園の沿革
 4. 特別病室「重監房」
  1. はじめに:
     いつも皆様のご支媛ご協力によって支えられ、日々を過ごせることを感謝しております。
     私たちの組織は1961(昭和26)年13カ所の国立ハンセン病療養所入園患者協議会として発足、2001(平成13)年に50年、創立以来「らい予防法」の粉砕と人権の回復、人間の尊厳、療養生活の改善等を中心に、血と汗、そして情熱を燃やして闘ってきました。
     明治以来、我ガ国の近代化は急速に進み、それに伴って成長を続けた繁栄とは全く関係なく、ハンセン病患者は時の権力者から近代社会に害毒を及ぼすものとして排除、撲滅、国策として強制隔離され、社会から追放されてきたのです。
     したがって患者や家族の実態などは隔離の中の出来事であり、如何に悲惨で非人間的であっても一般社会に知らされることはなく、自ら闘う以外解放への道はなかった。
     平成13年にハンセン病違憲国家賠償訴訟が熊本地裁に於いて勝訴、全面解決の方向に進んでおります。
     このような中、平成13年5月のハンセン病訴訟判決は、人間の尊厳と患者の一生を取り返しのつかないものにしてしまった隔離政策、それを許してしまった偏見の恐ろしさを私たちに教えてくれました。我が国のハンセン病対策は、この90年余り一般社会から完全に隔離された形で行われてきたため、私たちはハンセン病患者や、その家族の強いられた苦難の人生の実態をほとんど知る機会がありませんでした。いずれにしても、人生の大半を療養所で過ごさざるを得なかったハンセン病患者の失われた時間は、もう取り返すことはできません。
     今回の事件の背景には様々な要因が考えられますが、多くの差別事件に共通する社会の偏見が大きく影響しているのは事実です。このハンセン病に限らず、これら感染症(伝染病)に対する一般社会に潜む偏見は大変根強いものがあり、これまでにも数々の差別事件が起こっています。
     そこで今年度は人権の立場から、このハンセン病や過去に話題になった感染症について一緒に考え、理解を深める機会にしたいと思います。
  1. ハンセン病
    (1) ハンセン病の歴史
     ハンセン病は、昔は「らい病」と呼ばれていました。日本の文献に初めて「癩」という言葉がでてくるのは奈良時代の720年にできた「日本書紀」で、7世紀の初め朝鮮の百済から「白癩」の者が渡来したと記されています。また「今昔物語」によれぱ平安時代には、癩を病む者は非人の一部に含まれ、「物吉」(ものよし)、「瘍癩」(かったい)などと呼ばれ、また穢れた者として差別され、物乞いなどで生計を立てて、京都の清水坂などに集まって生活していたことが記されています。鎌倉時代には律宗の僧叡尊や忍性が「癩者」を集め救済したことや、時宗の開祖一遍は仏罰を受けたとして社会的に排除された癩者にも念仏を勧め、その元に集まった時衆の中に多くの癩者がいたことも「一遍聖絵」によって知ることができます。
    一遍聖拡巻から|左側の拡は「物乞いをする癩病者R人」(白い布で顔を覆っています|) 影側の拡’要行する一遍たち(先頭の下駄を履いている人が一編上人です|)
     室町時代には、外国人宣教師たちによって「癩者」の救済が行われ、修道院に「癩病院」が付設され治療も行われています。江戸時代に入っても、「癩者」の生活は寺社の門前や町家を回っての物乞いが主だったようです。医学の未発達だった当時の「癩」という言葉には、今日のハンセン病だけではなく、その他の重症の皮膚病も含まれていたと考えられていますが、いずれにしても「癩者」は昔から存在し、概ね人口1000人当たり1人位の割合で存在していたと推定されています。それにも関わらず「らい病」が蔓延し、人々が大被害を受けたり恐慌に陥った記録はありません。つまり医療の来発達な時代にも、忌避されながらも様々な救済を受け、ほぼ一定の割合で患者を抱えながら、「癩」は社会から隔離などの形で排除されることなく共存できていたのです。しかし、1909(明治42)年に法律による隔離が始まり、1931(昭和6)年以降は、強制隔離政策により完全に社会から排除されることになってしまいます。

    (2) ハンセン病とはどのような病気なのか
     ハンセン病は、らい菌という病原性細菌により発病する慢性感染症で、感染力は結核菌より弱く、感染しても発症(病)することの極めてまれな病気です。ハンセン病の治療には、大風子油の筋肉注射が用いられていましたが特効薬ではなく、多くは発病してしまうと徐々に病気が進行するため「不治の病」といわれていました。1943(昭和18)年にプロミンという治療薬が米国で開発されましたが、戦時中ということもあり日本でこの薬による治療が始まったのは戦後の1947(昭和22)年頃でした。その後も抗生物質やダプソン、リファンピシン、クロファジミンなどの優れた治療薬が開発され、またこれらを用いた多剤併用療法が確立されたことにより、発病しても通院治療で治る病気になりました。
     症状は末梢神経が侵されるため、手、足、顔面などに知覚麻痺や運動麻痺を起こすことが多く、結果として多くの身体障害を残してしまう病気です。病気の経過中には皮膚にも多くの皮疹、こぶなどができます。治療が遅れると眉毛の脱毛、頭髪の脱毛などが生じ、一見してハンセン病とわかる容姿になってしまうことがあります。このような外見に加え、この病気の最大の特徴である知覚麻痺のため、火傷とか外傷、またそれによる骨髄炎などにより手足の指が短くなったり、鼻の変形が起こったりします。しかし、これらの症状は、すべて神経障害により二次的に生じてしまった後遺症なのです。治療により体の中の病原菌がなくなっても、この失われた働きは元に戻りません。しかし、現在では優れた治療薬の出現と整形外科治療の進歩により、早期に発見され、正しい治療を受ければ、このような後遺症を残すこともな<治るようになりました。
     現在、我が国のハンセン病の発症は年間10例以下であり、新たな患者、特に若年層での発生はほとんどありません。しかし世界のハンセン病はまだ終焉を迎えるという状態ではなく、WH0では世界の患者数を96万人とみています。ほぼ過去の病気になったのは中部・北部ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、日本、オーストラリア、ニュージーランドなどです。まだ多いのはアジア、アフリカを中心とする赤道をはさんだ熱帯、亜熱帯地方のインド、ブラジル、ミャンマー、インドネシア、ナイジェリア、バングラデッシュなどで、全体の80%以上を占めています。これら患者の分布から、ハンセン病の発病は医療のレベルと共に環境要因、例えば戦争、飢餓、貧困など、つまり衛生状態や栄養状態にも大きく影響されることがわかります。

    (3) なぜ、偏見をもたれ嫌われたのか
     病気のメカニズムのわからなかった、また有効な治療法のなかった時代には、このハンセン病は誤解と偏見のため、洋の東西を問わず大変恐れられ、ハンセン病は人類の歴史上最も忌み嫌われた病気でした。なぜこのように誤解と偏見をもたれ、嫌われたのでしょうか。
     その第一は変形と機能障害です。一見してわかる手、足、顔、顔の中でも目、鼻、耳、眉毛、頭髪など一般に衣服に覆われない部分に障害が出て後遺症が残るため、外見から忌み嫌われました。第二は、らい菌は今日でも人工培地で培養が不可能なほど非常に弱い菌で、このため有効な治療薬の開発が遅れ「不治の病」と大変恐れられてしまったことです。第三は、医学的知識が乏しかった時代に、この病気の発症が同一家族に多かったため、遺伝病と喧伝されました。また業病、天刑病といわれ「過去に悪いことをした報い」「天が罰している刑だ」などと多くの宗教にも利用され、「らい病にかかると指が腐って落ちる」とか「鼻が溶けて無くなる」などと表現され嫌われ、この病気に対する悪いイメ一ジが定着してしまいました。第四は、らい予防法により隔離してしまったことです。明治に入ってからも遺伝、伝染の説がありましたが、容易には伝染しないとして遺伝説が重視されていました。しかし1873(明治6)年ノルウエーのアルマウエル・ハンセンによって「らい菌」が発見され、1897(明治30)年にベルリンで開催された国際会議でハンセン病が伝染病であることが確認され、これが我が国にも伝わってからは、「癩」は隔離しなければならない恐ろしい伝染病という認識が形成されていきました。このため、今まで社会の中にあった共存関係は完全に崩壊し、自分たちの近くからハンセン病患者を消し去ることを望むようになり、隔離のための法律制定を許すことになりました。また、この法律の制定により始まった強制隔離は、強い伝染力を持った病気という誤解と偏見を一層高めることになり、ハンセン病はより嫌われ、恐れられ、また患者を社会から完全に排除することになりました。

    (4) らい予防法と廃止
     我が国のらい予防法の起源は、1907(明治40)年制定の「癩予防二関スル件」で、この法律をうけて1909(明治42)年、全国を5地域に分けて公立療養所が設けられ、まず放浪する患者の収容が開始されました。1931(昭和6)年の改正で法律名も「癩予防法」となり、それまでの放浪する患者中心の隔離から全患者の強制隔離を規定し、1953(昭和28)年の「らい予防法」の成立時にも隔離規定はそのまま継続され、1996(平成8)年の法律廃止まで続けられました。このらい予防法が廃止され5年になりますが、元ハンセン病患者は社会との隔離生活を始めてすでに50〜60年が経過しており、大半の方が70歳をこえた高齢者であること、故郷ではすでに死者として葬られ、家族や親戚は離散を余儀なくされ所在もわからない人々が多く、法廃止後に社会に復帰できた人は1%に満たないのが実態です。このため現在も、国立13ヶ所、私立2ヶ所の療養所で約4600人がそのまま暮らしています。
     ハンセン病に対する治療薬がなく、また医学的知職の乏しかった昭和初期までは、やむを得ないとしても、感染力が弱いことや治療薬が開発されたことを受けて、世界中でハンセン病の隔離政策は止めようという声の高まりや、もはやハンセン病は隔離政策を必要とする特別な疾患ではないとの判断から、1960(昭和35)年に世界保健機関(WHO)が行ったハンセン病隔離法の撤廃と外来治療の普及提唱を、もっと早く受け入れ対処しておれば少しは状況が変わっていたと思われます。
     現在、国は和解勧告を受け入れ、全国の患者と元患者全員の補償のため「ハンセン病補償法案」の制定を行う一方、患者と元患者の人権と名誉回復のため、国民の理解を深めるためのキャンペーンを始めています。今私たちにできることは、元患者が故郷に帰ってきた時、偏見をもたずに暖かく迎えることではないでしょうか。

  1. 栗生楽泉園の沿革
     草津温泉がハンセン病に効くということで、戦国時代からハンセン病患者が集まっていた。草津町は健・病混浴を避けるため、明治20年草津町の一角をよぎる湯川の盆地沿いに、湯の沢部落を開村した。大正5年イギリス人コンウォール・リーが、湯の沢部落に聖バルナバ病院を開いた。そして、温泉とともに治療施設があることで全国各地から患者が部落に集まり、多いときには800余名の大集落を形成し、草津町と接するようになった。
     草津町は再びハンセン病患者の隔離を考え、温泉街から約3Km離れた滝尻原を予定地として国から払い下げてもらった。大正14年この一角に三上千代は鈴蘭園を開いた。
     昭和6年の第59議会で成立した12万円の予算で療養施設が開設され、昭和7年国立療養所栗生楽泉園が誕生した。
     当園は国の方針に則して相次いで増床されるとともに、幾多の障害を排除して、10年後の昭和17年には当初の目的とした湯の沢部落の患者移転業務も完了、その一方、罹病のまま社会生活を余儀なくされていた患者の入所業務もあわせて実施する等、数次の変遷を経て、現在の敷地総面積732,802u、建物234棟(延面積39,687u)、患者定床、医療法694床(入院定床345床)、職員定員247名、賃金職員定員111名の療養所としての規模を整えるに至った。
     このようにして、創立・整備期を経た当園であるが、過去の実績によれば、昭和20年(終戦時)の1日平均患者数1,331名をピークとして、以後年々減少の傾向を示し、本年2月1日現在では293名(男154名・女139名)の在園となっており、このうち、外国人は17名である。
     また、入園者の平均年令は76.6才、結婚(内縁を含む。)している者60組、在園期間は30年以上の者93%、菌陽性者2.3%、不自由者276名(約94%)、うち盲人(身体障害者福祉法に定める障害程度1級相当)は65名で、約4.5人に1人である。
     なお、開園以来の軽快退園者は261名、死亡者は1,792名である。
  2. 特別病室「重監房」
     「らい予防法」に基づく隔離政策により、1938(昭和13)年に、「特別病室」と称する患者の監禁施設がつくられた。
     全国の療養所から待遇改善などを求める患者などが送りこまれ、1947(昭和22)年に廃止されるまでに、22入が餓死、凍死、衰弱死、自殺においこまれた。
     1947(昭和22)年8月26日付『上毛新聞』は「あばかれた栗生楽泉園」の見出しで、重監房=「特別病室」について、「監獄部屋」と評して「ほうりこまれたら最後入浴も治療も行わず一枚畳梅干一個の飯に冬でも布団が二枚きり夏には湿気・冬が零下15度の寒さで布団は凍りつく。これでは死ぬ以外に途はない」とその実態を紹介した。
    「特別病室」の構造略図’X人分の独房があります|部屋の片隅に便所があります|各室R重に鍵が掛かっています|

(資料3)
体験談:
「入園57年目を迎えて」
 
国立ハンセン病療養所粟生楽泉園入所者から、
社会で暮らす皆様ヘメッセージを発信いたします。−

 

               
 入園者自治会長:藤田三四郎

  1. 栗生楽泉園に入所当時について
     さて私の名前は藤田三四郎と申します。はじめに、栗生楽泉園に入所する前について触れたいと思います。
     私はこの療養所に入所する20歳まで、宇都宮陸軍航空整備隊に服役し、飛行機整備をする任務についておりました。
     ある日のこと、右手関節がひどく腫れ上がり、宇都宮陸軍病院に入院して診療を受けたところ「ハンセン病」と宣告されました。そのときの気持ちは、とうてい筆舌に尽くし難いものでした。ハンセン病と診断された以上、陸軍病院にいることは許されず、昭和20(1945)年7月7日に国立ハンセン病療養所栗生楽泉園に護送されました。
     当時の栗生楽泉園は、私が考えていたような病院や療養所といった類のものではありませんでした。食糧事情は想像以上に悪く、その日の貧しい給食を補うために、各自がハンセン病を病む不自由な身で僅かばかりの畑を耕し、その乏しい収穫物で飢えを凌ぐことに汲々としていました。療養所本来の治療面は二の次三の次という有様で、治療は外科治療だけ、しかもそこでは患者作業員が手伝っているというものでした。そこはまさしく生き地獄のような悲惨な状態で、2,3日は食事も喉を通らないほどのショックを受けました。
     当時は確実な治療薬が無かったこともありましたが、食糧事情か悪く医療が行き届かなかったために、病状を悪化させて亡くなる方が毎年大勢おりました。そのような明日の命も分からないという時代に、社会復帰をすることなど到底、夢にも思い浮かびませんでした。このような療養所暮らしの中で私自身も遠からず絶望的な日々を送り、そして終戦を迎えたのです。
  1. キリスト教入信について
     次にキリスト教の入信について記しておきたいと思います。私が妻のフサと結婚したのは昭和21(1946)年の3月のことでした。以来、夫唱婦随二人三脚で歩み、お陰様にて今年で56年目を迎えます。この間、多くの皆様に見守られ、支えられてきたことに感謝しております。そんな私たち夫婦が、昭和23(1948)年に日本聖公会北関東教区・聖慰主教会堂において洗礼、按手式を受け信徒となり「悲しい病から喜びの世界」へと気持ちの変化を遂げました。そこで授かった聖句は「外なる者は破れても内なる者は日々新たなり」という言葉でした。この言葉の意味を「肉体は老いて行くけども、心はいつも輝きを失わない」と自身で解釈し、常に神とともにあることを感謝しつつ今も歩み続けております。
     ここで、何故に私たちがキリスト教という宗教に入信を果たしたのか触れていきたいと思いますが、それにはまず昭和16年の吉田ヶ原陸軍航空通信学校時代に体験した不思議な出来事まで遡らなけれぱなりません。
     当時、吉田ヶ原の飛行場は開港したばかりで、航空事故が絶えませんでした。ある朝、いつものように格納庫の前でエンジンテストを行っていましたが、どうしたことか、その朝に限って私が受け持つ飛行機のエンジンがどうしても始動しないのです。今朝に備えて念入りに整備していたはずなのに、一体どうしたことだろうと思いつつ「どうしたー、しっかりやれ!!」と、機長の怒鳴る声に一層あせって始動操作を繰り返すのですが、いくら繰り返しても始動してくれないのです。あれほど万全の注意を払って整備したはずなのに、どこに落ち度があったのだろうと途方にくれたとき、ふと機体に添って機尾のほうに視線をやると、妙なものが目に付きました。機体の後方5メートルほどぐらいのところに、今は使われなくなった古井戸があり、そこには女物らしき下駄と封筒が置かれているのです。妙な胸騒ぎに駆り立てられ走り寄ってみると、果たして「空の勇士様」「母上様」と記された封書でした。その遺書らしき封筒を拾い上げながら井戸の中を」覗くと、女の人が落ちて死んでいました。慌ててこの機長に報告すると大騒ぎとなり、この日の飛行訓練は中止されました。
     後になって分かったことですが、この女性は藤田民子さんという人で、当時余りに航空事故が多く、若い犠牲者が続出することを憂慮された藤田女子は人柱になって尊い空の勇士を事故から守ろうと、自らの命を絶たれたということでした。そのことがあってから不思議に航空事後はめっきり少なくなり、飛行場の一角には女史の碑が建てられ、今日も残っております。
     それにしても、あの時もし順調に850馬カのエンジンが始動していたなら、藤田女史の遺書は跡形も無くどこかに吹き飛んでしまい、女史の意思は正しく伝えられなかったに違いありません。あのときに限って、エンジンが始動しなかったのは、女史の霊魂が自分の意思を伝えるために、エンジンの始動を止めたのではと思えてなりません。この不思議な出来事を目の当たりに経験した私は、霊魂の働きというものを信じないわけにはいきませんでした。
     このときの体験を楽泉園に入所した翌春、つまり結婚したころにふとしたことから思い出し、霊魂の行方について思いを巡らすようになりました。ある日のこと、私と同県である茨城出身者で、しかも同じ軍隊経験者の尾崎さんという、当時聖公会の教会委員だった人が私を訪ねてきてくれました。お互い軍務に服したもの同士ということもあり、軍隊生活の話に花が咲きました。そのうち、あの藤田女史の事件が話題となりました。
     私はそのときの不思議な経験から「人聞の霊魂は、死後も存在するものであると思います」と、日頃の考えを話しました。すると尾崎さんは「君はクリスチャンだったのですか」と尋ねられました。私は「いえ、無宗教です」と答えると、尾崎さんは「聖書をあげるから、是非読んでみなさい」と言って、信仰の話などして聖書を置いて帰ったのでした。
     初めて手にしたその聖書を、私はどこということなく当てずっぽうに開き、そして、そのまま食い入るように読み始めました。その中の一つに「わたしはよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとえ死んでも活きる。また生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と書かれた言葉に目が釘付けになり、何回も何回も繰り返し読んで考えてみました。しかし、どうしても私はその意味がわからなかったので、尾崎さんを訪ね、この聖句についての説明を求めると尾崎さんは親切に説明してくれた後に「要は神を信じるかどうかです」と信仰の決断を促されたのです。それからというもの、私はたびたび尾崎さんを訪ねるようになり、尾崎さんと私との間に交わりが重ねられていきました。
     しばらくしてある日の日曜日、尾崎さんは私を教会に案内してくれました。そして主日礼拝終了後の求道者の集いで、山中神父さんに私を紹介してくださいました。
     すると山中神父は開口一番に「藤田兄は初めてですね。あなたは神を信じますか。信じるとは、神に自分をお任せするということです。自分の身も心もすっかり神に差し出し、神の御心のままに生きるということです。あなたは本当に神を信ずることができますか」と質問されました。
     そこで私は「私のようなものでも救っていただけるのでしょうか」と尋ねました。すると神父は「神はそのひとりごを賜ったほどにこの世を愛してくださった。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とヨハネ伝の一説を示されてから、この言葉の意味を、私にもよく分かるように解き明かしてくださいました。すると私は自分でも驚くほど素直に「はい、信じます」と信仰を決断してしまいました。このときの私は深い感動を覚え、神との出会いを得たことの喜びに満たされていました。
     その気持ちを、あとで尾崎さんに話しますと、尾崎さんは大変に喜んでくれました。それからというもの、私は求道者の一人に加り、「公会問答」をはじめ、聖書や聖公会の教理などを約2年間学びました。そして信仰の導きを得て私たち夫婦は洗礼を受け、堅按式(信徒按式)を受けたのです。
     こうして私は、聖公会の信仰をほうじ、生涯神の御心に従い、またその戒めを守ることを聖霊のみ助けによって行い、信仰をかため、神の僕としてキリスト教の肢に加ることができました。
     私をキリスト教信仰に導き入れるきっかけとなった不思議な出来事や尾崎さんとの出会い、加えて山中神父さんの信仰の導き、いずれも神の摂理を感じないわけにはいきません。これからも入信の恵みを覚えて信仰を深め、神によって生かされることの恵みと喜びを感謝していきたいと希っています。
  1. 自治会活動について
     ところで、私たちは戦後の長い苦難と悲惨な状況にあっても、ともに慰め励まし合いながら厳しく険しい道をお互い希望を抱いて生きてきました。ことに私の場合は自治会活動を続けることで生きる証を探し続けてきたように思います。そんな辛く苦しい療養生活でも、自治会活動の基本的要求として人権回復、医療の充実、経済闘争、プロミン獲得などの要求行動を実施するようになると、入園者の顔にも明るい陽が射して来るようになりました。特に新薬ブロミンの出現では、ハンセン病特有の病状だけでなく、精神面のほうでもポジティプな方向へと回復してまいりました。例えばプロミン治療によって、軽症者のなかには完治して社会復帰し、今日では2世が誕生している方もあります。これらは私たちにとりまして画期的な福音となる出来事でした。
     昭和28(1953)年に「らい予防法」改正闘争が起こり、私も厚生省(現在の厚生労働省)や国会議事堂裏に七日間の座り込みに参加いたしました。そのときの詳細などは栗生楽泉園患者五十年史「風雪の紋」に掲載されておりますので割愛させていただきます。
     またその後の運動で、患者による病棟や不自由者棟などの看護・介護を職員化にするよう要求し、併せて施設整備、居住等の更新などを要求する運動をも続けてきました。この長い道のりの中で、多くの諸問題の解決を図るために運動を続けてきた結果、昭和33(1958)年以来、患者作業はすべて職員化へと返還することができ、また居住棟の更新や医療の充実はもちろんのことながら、医療機器や公共建物などの整備、更新を実現することができました。現在、職員増員によって快適な看護・介護を受けることができますことに大変感謝しております。
  2. らい予防法について
     どんなに注意していても、風邪をひいてしまうことがあります。さまざまな病気があり、人にうつってしまう感染症もいろいろです。それなのになぜ、ハンセン病だけが強制的に隔離されて、長い間、放置され続けたのでしょうか。
     誤った知識によって、ある人たちを偏見の目で見たり、差別してしまうことがあります。そうしたさまざまな差別問題の中で、かつてハンセン病を病んだ人々とその家族への人権侵害はその典型といえるでしょう。
     ハンセン病は、古くは「らい病」と呼ばれ、手、足、目、耳、鼻など目立つところに変形や機能障害が表れたため、「前世のたたり」「不治の病」として恐れられていました。1907年(明40)に法律「癩予防法二関スル件」が制定され、放浪する患者の収容が始まりました。その後、療養所で断種手術を行なったり、園長には懲戒検束権が与えられました。
     1931年(昭6)「癩予防法」に改正され、放浪する患者だけでなく、すべての患者の隔離が始まります。そして、無癩県運動により強制収容が強力に推し進められました。
     戦後、患者の人権に対する意識は大きく変わり、全国の療養所入所者による自治組織が結成され、「癩予防法」反対闘争に発展します。しかし患者の願いは認められず、1953年(昭28)「らい予防法」が制定されてしまいます。民主主義の時代なのに、この法律も退所規定がない「出口のない」ものだったのです。
     隔離された入所者の訴えは一般社会に届きにくかったのですが、粘り強い闘いを経て、1996年(平8)4月1日、やっと「らい予防法」は廃止されたのです。
     2001年(平13)5月11日、らい予防法違憲国家賠償請求訴訟で入所者たちは勝利しました。この二つの記念日を入所者たちとその家族は「人間性の回復を、犠牲になった人たちとともに心から祝った」と語っています。
     うつりにくく、死に至ることはないという病気でありながら、長い年月、ひどい人権侵害を受け続けた人々はどんな思いだったでしょう。国から、専門家から、そして市民、ほとんどの人から忌み嫌われた人々の気持ちをほんの少し想像するだけで胸が詰まります。私たちにできる交流から始めたいと思います。
      『人権リーフレット・失われた時間〜ハンセン病を見つめて〜』
            (2001年12月大東市人権啓発課発行より抜粋)<フィールド 1>

     さて、上記にもありますように平成8(1996)年4月1日に私たちの永年の悲願でもありました「らい予防法」が、多くの諸先生方を始め関係各位の多大なるご尽力により廃止することができ、同時に偏見・差別・人権回復のための啓発普及活動が更なる広がりを見せるようになりました。また治療面では、国立病院や他の病院などへの委託入院・通院等、自由に治療を受けることができるようにもなりました。委託治療に関しては、当初トラブルも多々ありましたが、現在では大きな問題も起きてはおりません。
     今後の療養所の方向性といたしましては、全国ハンセン病療養所の入所者数3,800名弱、平均年齢76歳、当園の入所数は252名、平均年齢77歳強という超高齢化を迎えたことで起こりうる諸問題に着手していかなければなりません。例えば、依然として残されている全国ハンセン病療養所特有の医師の数などに関する諸問題を解決し、かつ高齢者に向けた医療の充実を図り、安心して療養生活が送れるように継続して努力し続けなければならないということです。またそれに伴い、各ハンセン病療養所の将来構想を様々な方向から模索していかなければならない問題も挙げられます。この問題に関し私の個人的な考えとしては、将来を見通して安心して療養生活を営むために医療機関として存続することが望ましいと思っておりますが、これも極めて難しい問題であります。
  3. おわりに
     最後になりますが、私の暮らした栗生での67年間のことや自治会活動の45年間を改めて振り返ってみますと、「よくぞここまでやって来たものだ」と非常に感慨深く思います。これも多くの諸先生や皆様方のご支援ご協力によるものであり、また主に在る諸兄姉との出会いとご加護に支えられてきたお陰であると思っております。同様に、友人知人に対し感謝申し上げ、心より厚く御礼を申し上げたいと思います。
     
     『出会う人すべて私の恩師です』

      藤田三四郎・ふじたさんしろう(77歳)
   関連資料へのリンク
     「尊厳回復の願いと私のたたかい」−ハンセン病を生きて−(森本美代治さん講演会)

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掲載:2003/11/04